東日本大震災から9年、地震発生時は自宅にひとり

2011年3月11日金曜日。当時、私は学生新聞の記事を作っていた。そして、いつもの金曜日と同じように小林克也さんの生放送が流れていた。金曜日の夜は地元サークルの練習日でもあるので、横浜にある大学にはいかず自宅で、私は自宅のソファーでパソコン作業をしていた。

私より明らかに若い男の子が、ラジオのクイズコーナーで正解したタイミングだっただろうか、緊急地震速報がなったかどうかの記憶も定かではないほどの、一瞬から揺れが始まった。リビングに物がある家ではないが、机の下に身を寄せる余裕すらなかったと思う。大きな窓から見えるあらゆるものが揺れ、ラジオからは克也さんからいつもの冷静な声で、安全な場所に身を置くように呼びかけられていた。

揺れが収まったのち、ラジオを流しながら、開きっぱなしのツイッターで情報を確認していた。東北方面、大津波警報が発令されたツイートが映し出される。東北方面に知り合いはいないものの、何かを必死に祈っている自分がいた。正直テレビを付けるという発想もなかった。家族・祖父母、全員が無事であることを確認した。確認できたところで、やっと冷静になれた。もし、横浜にいたら、自宅までは帰ってこれなかっただろうと。少なくとも首都圏の鉄道はマヒするだろう、ということは安易に想像できた。

まずは、学生新聞メンバーに連絡を取ることにした。携帯電話はつながらないだろうから、いろいろな媒体でメッセージを送ってみる。トップは大学に滞在していたらしく、インターネット環境はしっかりしているとのこと。理系大学の特権を実感した。『多少の被害はありそうなので、食堂に全員集められ、点呼をとった。電気とネット環境はいつも通り』の言葉を聞いてかなり安心した。もう一人の同期は、ネパールからの帰国ルートでまだ東京行きの飛行機にも乗れていなかったので無傷とのこと。私の同期は2名、これで安否確認。

一人だけ、連絡が取れない後輩メンバーがいる。どうやら東北にいる。このことを聞いた時、無性に寒気を感じた。今まで感じたことのないくらいの寒気、むしろ恐怖だった。この日はとりあえず、最新情報を発信することを決めた。リアルタイムでのtwitterとワードプレスのサイト、両方でできるだけのことはやろうということ。そして、連絡が取れない彼女にはできるだけの連絡を試みることを。

それぞれがキャンパス、自分、職員組織の今ある姿、そのままをtwitterに更新し続けた。図書館休館、乾パン配布など、できるだけ中の状況を細かく。正直いまのコロナウイルス対応でやきもきしているのは、この時の対応から来ているのかもしれない。

連絡が取れなかった彼女は数日経過してからやっと連絡が取れた。もう何日経過したのかは記憶がない。仙台で電源をなくし、全く電話もメールもなにもできなかったと彼女は言う。この時の記録は彼女に、新聞の一節に書き綴ってもらった。今でも図書館にあるものと信じている。

そして、震災から一年後の2012年3月11日に気仙沼や仙台などを訪れることができた。大学ゼミの同期と初めて東北に行ったあの日を忘れることができない。あのころは、大きな船が町に上がったりと、まだ震災の爪痕がまだ多く残り、息を飲んだ。

未だに震災のことを思い出すと、わたしでも気持ちが抑えられなくなってしまう。その後も、事あるごとに東北を訪れているが、また行きたい。